エスケイプ/アブセント/絲山秋子
『海の仙人』『袋小路の男』『沖で待つ』『ラジ&ピース』『ばかもの』『不愉快な本の続編』『忘れられたワルツ』に続いて絲山さんの作品。
改めてみると思っていたよりたくさん読んでいました。
どれもすてきなタイトルですね。
闘争と潜伏に明け暮れ、気がついたら二十年。活動家のおれも今や40歳。長い悪夢からようやく目覚めるが、まだ人生はたっぷり残っている。導かれるように向った京都で、おれは怪しげな神父・バンジャマンと出会い、長屋の教会に居候をはじめた。信じられるものは何もない。あるのは小さな自由だけ。あいつの不在を探しながら、おれは必死に生きてみる。共に響きあう二編を収めた傑作。
小気味よい語り手の独白と、旅する感覚がクセになって、ふと著者の作品を読みたくなります。
今回は“セクト”とか“オルグ”とか“アジる”とか…わからなくて調べながら読みました。
話したことはおろか出会ったこともないタイプの人と一緒に旅をしているような気分になれるだなんて、やっぱり小説はおもしろい。
狂ったペンギンの話や、好きな言葉を書いて投げる皿の話など、エピソードも効いています。
ひとつひとつが積み重なって、主人公の生き様が透けて見えるようです。
主人公の「あ~あ、やんなっちゃうなあ」というぼやきが聞こえてきそうな話でありながら、追い詰められているというよりはにやにやしながら口にしているように思えてきます。
だからこそ“気がついたらものすごく年をとっていた”という感じには、浦島太郎も目じゃないくらい胸に刺さるものがありました。
確かに生きてきた何十年だとしても、エスケイプ(逃亡)に裏づけられたものだとしたら、そこにはアブセント(不在)しかないのかもしれない。
そんなふうに考えながら読み終わってみると、一転して“アブセントからのエスケイプ”の物語が浮かび上がってきました。
いい年をした大人が“いるようになる”ことを受け入れる心の準備をする。
及び腰でありながら、きっかけに手を伸ばし足をかけてみる。
いくつになっても始められる、なんてかっこいい言葉は当てはまらなくても、笑っちゃうくらいのまっさらさはいっそすがすがしい気がしました。
「がんばろう」「お互いに」と、手を上げて挨拶を交わし合うような、 ささやかで優しい励ましを届けてくれる作品でした。