わたしのウチには、なんにもない。/ゆるりまい
尊敬する方がおすすめされていて気になったので、本屋さんをのぞいてみたら、コミックエッセイの棚のいちばん目立つところに置いてありました。
『断捨離』。
やっぱりみなさん気になるキーワードなのでしょうね。
わたしのウチには、なんにもない。 「物を捨てたい病」を発症し、今現在に至ります
- 作者: ゆるりまい
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2013/02/28
- メディア: 単行本
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断捨離ブログランキング1位。「なんにもないぶろぐ」の汚部屋脱出コミックエッセイ!
写真と文章で自宅を紹介するスタイリッシュなブログが評判で、そのモデルルームのような文字通り“なんにもない生活”は、汚部屋に棲むすべての人たちから羨望のまなざしを受けています。しかし、そうなるまでには、「捨てたい病」を発症した彼女と家族との長い葛藤(戦い!)がありました…。極度の断舎離に至ったことの顛末を自身によるコミック化で再現。かつては汚部屋の住人だった彼女が「なんにもない生活」に至るまでには、涙と努力の紆余曲折があった!? 単行本ではそれが明らかに! ※巻末カラー(32p)には、まいさんのおうち拝見コーナーを収録! お気に入りインテリアグッズ紹介やQ&Aコーナーもあるよ♪
私が「この本がほしい!」と手にとったときには、「どうぞー。片づけでもするの?」とさらっとした反応の主人でしたが、帰ってから私より先に読み終えて、まずは手近なパソコンの中身の整理を猛然と始めていました。
続けて私も読み終えてみると、頭のなかで片づけの段取りができあがっていることに気づき、あとはもうその流れに乗るだけといった感じで今日まで来ました。
休みのたびに無印良品やIKEAに足を運び、収納用品の大きな荷物を抱えて帰ってきては、翌日から捨てる→掃除→整頓するという日々を送っています。
とある平日の真夜中に、主人と二人、台所を隅々まで磨き上げるという暴挙に出たこともありました。
汚れが気になっていたカーペットを洗おうとどかしてみたら、「…いらないのでは?」と思えてきて、きれいさっぱりなフローリングでの生活となりました。
いつまで必要なのか判断ができず、とりあえずで溜めてしまっていた書類もばっさばっさと捨てることができました。
バスタオルやふきんを新しくし、アロマオイルでルームスプレーを作り、お気に入りの花瓶やキャンドルホルダーを愛でているとしみじみとした喜びを感じます。
毎朝起きたときに部屋が整っていると、それだけでスムーズに一日を始められるような気持ちよさがありますね。
なんとも不思議な本なのです。
影響されて、心を熱くして、「片づけをしなければ!捨てたい!減らしたい!」「こんなすっきりした部屋に暮らしたい!」と思うわけではなく…。
ふと気づけば体が動き出しているというか、気になっていたところに手が伸びているといった具合です。
著者のゆるりさんのブログにも同じ効果があって、少しずつさかのぼって読んでみては、いそいそとうちの片づけに励む力を分けてもらっています。
ひとつには、ゆるりさんの哲学があくまでご自身にとって心地よいものであって、押しつけがましさが一切ないことにあるのかもしれません。
ご家族ともお互いに思いやり、相手のことを尊重しようとし、感謝の気持ちも忘れない。
そんな姿に整理術以上に心を打たれました。
野田琺瑯や南部鉄器、倉敷意匠や白山陶器など、好きなもののテイストが似ていることも、「こういうふうにすればいいんだ!」「こうしたらもっとすてきだな」とリアルに想像ができてとても参考になります。
ゆるりさんの名言、
『100個適当な物を持つより 10個のお気に入りを持ちたい』
を胸に、私も片づけ道に邁進したいと思います。
きりがないことだからこそ楽しみたい。
大切な家族と暮らす家をきれいにしたい。
そんな基本中の基本を思い出させてくれる作品でした。
エスケイプ/アブセント/絲山秋子
『海の仙人』『袋小路の男』『沖で待つ』『ラジ&ピース』『ばかもの』『不愉快な本の続編』『忘れられたワルツ』に続いて絲山さんの作品。
改めてみると思っていたよりたくさん読んでいました。
どれもすてきなタイトルですね。
闘争と潜伏に明け暮れ、気がついたら二十年。活動家のおれも今や40歳。長い悪夢からようやく目覚めるが、まだ人生はたっぷり残っている。導かれるように向った京都で、おれは怪しげな神父・バンジャマンと出会い、長屋の教会に居候をはじめた。信じられるものは何もない。あるのは小さな自由だけ。あいつの不在を探しながら、おれは必死に生きてみる。共に響きあう二編を収めた傑作。
小気味よい語り手の独白と、旅する感覚がクセになって、ふと著者の作品を読みたくなります。
今回は“セクト”とか“オルグ”とか“アジる”とか…わからなくて調べながら読みました。
話したことはおろか出会ったこともないタイプの人と一緒に旅をしているような気分になれるだなんて、やっぱり小説はおもしろい。
狂ったペンギンの話や、好きな言葉を書いて投げる皿の話など、エピソードも効いています。
ひとつひとつが積み重なって、主人公の生き様が透けて見えるようです。
主人公の「あ~あ、やんなっちゃうなあ」というぼやきが聞こえてきそうな話でありながら、追い詰められているというよりはにやにやしながら口にしているように思えてきます。
だからこそ“気がついたらものすごく年をとっていた”という感じには、浦島太郎も目じゃないくらい胸に刺さるものがありました。
確かに生きてきた何十年だとしても、エスケイプ(逃亡)に裏づけられたものだとしたら、そこにはアブセント(不在)しかないのかもしれない。
そんなふうに考えながら読み終わってみると、一転して“アブセントからのエスケイプ”の物語が浮かび上がってきました。
いい年をした大人が“いるようになる”ことを受け入れる心の準備をする。
及び腰でありながら、きっかけに手を伸ばし足をかけてみる。
いくつになっても始められる、なんてかっこいい言葉は当てはまらなくても、笑っちゃうくらいのまっさらさはいっそすがすがしい気がしました。
「がんばろう」「お互いに」と、手を上げて挨拶を交わし合うような、 ささやかで優しい励ましを届けてくれる作品でした。
おむすびの祈り「森のイスキア」こころの歳時記/佐藤初女
買い物に行くと目にも鮮やかな春の食材が出揃っていて、「おいしそう!」と狩猟本能がおおいに刺激される今日このごろ。
食べることについて、今一度考えてみたいと思い手に取りました。
おむすびの祈り「森のイスキア」こころの歳時記 (集英社文庫)
- 作者: 佐藤初女
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/07/20
- メディア: 文庫
- 購入: 8人 クリック: 47回
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食はいのち。佐藤初女さん、感動のエッセイ。
青森、岩木山麓にある“森のイスキア”主宰の佐藤初女さん。彼女の握る“おむすび”で、これまで多くの悩める人々が救われたという。少女時代の闘病生活から現在までを率直に綴る自伝的エッセイ。
以前、“森のイスキア”についてのご本は読んだのですが、著者の半生については初めて知ることばかりです。
特に『受洗の恵みに与る』の章でのご主人をちくっと戒めるようなやりとりや、『文庫版の完成によせて』での息子さんとのお話からは意外な一面をうかがい知ることができました。
立派な活動やお考えから、自分とはかけ離れた雲の上の人のように勝手に決めつけていたけれど、その表の部分を支えていたのは恐れ多くも私と同じ、妻であり母であり少女であった一人の女性の姿でした。
ご自身がお若いころにご病気になられた経緯や、時間や状況を問わず訪ねてくる方への思いなど、かなり鋭くはっきりとした意見をお持ちでありながら、同時にとてもあたたかくて。
つらくとも誰を責めるわけでなく、自らの信じる人生を全うしようとされている姿は美しく映りました。
物の扱い方にも真摯さが現れていて、愛用されているすりこぎや、縁あって手元にきたイスキアの鐘に対して、なんて豊かな向き合い方をされているのだろうと見習いたく思いました。
そしてやっぱりなんといっても食についてのきらめく言葉たち。
丹精込めて作られたお漬物や梅干しのなんとおいしそうなこと!
我が家の話になりますが、お休みの日などせっかくだからと「外食する?」と尋ねてみると、「作ってもらわなくちゃならないから申し訳ないんだけど、くま(私のことです)の手料理が食べたいな」と言ってもらえるのはありがたいことなんだと気がつきました。
比喩でなく、私の作ったものが主人や息子の体、明日からの毎日、ひいては人生の土台になるのだということを忘れずにいたいです。
凝ったものは作れないけれど、一品一品を丁寧に手がけていこうと思います。
…といっても主人のブログからもおわかりいただけるように、私が気負うまでもなく、だいぶ甘えさせてもらっているんですけれど。
毎日の食事を作っていると、人が作ってくれたものって、ほんとうにおいしくありがたくいただけますね。
頼らせてもらいながらもしっかりと責任をもって、日々の食卓を充実させていきたいと決意を新たにしました。
海のふた/よしもとばなな
満開の桜の下を散歩したあと、あたたかな季節の気配にわくわくして、この青とオレンジの表紙に手が伸びました。
読むのは2、3度目?
短大を卒業し、西伊豆のふるさとの町に帰ってかき氷屋を始めた主人公=まりちゃんと、ひと夏を共に過ごすことになった少女=はじめちゃん。
自然も経済も、生気を失ってしまったふるさとの町の中で、懸命に自立し、再生させようとする少女たちのささやかな闘いの物語――
友だちになったばかりの二人の会話を軸に物語は進んでいきます。
働くこと、お金のこと、自分が生まれ育った場所への思い、好きな人のこと、
宇宙のこと海のなかのこと、この世の不思議について。
アイスを食べたりジュースを飲みながら交わす気兼ねない言葉たち。
話を重ねていくうちに、相手のことを知りながら自分のことにも気づいていく。
いつかまたこんな友だちができるだろうか?とうらやましくなりました。
気が向いたらざぶんと入れる海があったり、ぷらっと温泉に行けたり、
お気に入りの木のそばで憩ったり、一日を見送るような気持ちで夕日を眺めたり、
自然と生活が馴染んでいるようすも魅力的で。
私は物心ついたころから都市部で育ってきました。
かつて暮らしていたマンションも一軒家も建て替えられ、幼いころに通った習いごとの教室があったところもファッションビルになっています。
こうしてあらためて考えてみると、私の記憶のなかの大切な場所はがらりと姿を変えてしまっている。
それなのに今の今まで気づかずにいたのは、今もずっと同じ街に住んでいて、新しい思い出が日々更新されており、街と一緒に自分も変わっているからかもしれません。
もっと時間が経ってから、外に出るようなことがあってから、せつなさで胸が痛むくらいになつかしく思い返す日がくるのでしょうか。
作中で書かれている「かき氷」のように、みんな「淡く甘く消え」ていく。
毎日は地味で同じことの繰り返しに見えたとしても、絶えず流れ、いつかは姿形を変えていく。
そのことへの謙虚な気持ちと安らぎを、よしもとさんの作品は思い出させてくれます。
今回印象に残ったのは、
解決ってほんとうに面白くて、ちょうど「これはもうだめかも」と思った頃に必ず訪れる。「絶対になんとかなるだろう」と思うことをやめず、工夫し続ければ、なんだか全然別のところからふと、ばかみたいな形でやってくるものみたいだ。/120ページ
という一文でした。
ピンときたのでメモしておこうと思います。
カルカッタのチャイ屋さん/堀江敏樹
おいしそうなタイトルに惹かれ、図書館で借りてみました。
カルカッタに無数に点在するチャイ屋(茶店)をティー・スペシャリストの著者はたずね歩く。
チャイ一筋のチャイ屋のおやじと客たちの、1杯1ルピー(3円)の紅茶から見えてくる、もうひとつの紅茶の世界に案内する。
チャイ!チャイ!!チャイ!!!
うだるような暑さのなか、あたりに漂う甘いスパイスの香り…。
冬に逆戻りしたかのような寒い夜にうっとりしながら読みました。
老いも若きも、近所の人も外国人も、みんな同じ1杯1ルピー。
セルフサービスの牛乳販売所、
飲み終わったあとのポイ捨て前提で作られる、土でできたクリ(カップ)、
チャイ屋の道具のアルミ製品はひとつひとつに値段があるわけではなく、秤に乗せて目方で売る計り売り。
物心ついたときから自動販売機に缶やペットボトルのお茶があたりまえにあったので、異国の文化が新鮮に映ります。
昔からお茶にまつわる光景に思い入れがありました。
主人とつきあい始めたばかりのころにデートでいただいたアップルパイとあたたかな紅茶。
冬の散歩の途中、立ち寄ったお地蔵さんの店(店先に赤い前掛けのお地蔵さんがいるんです)で、『絵描きの植田さん/いしいしんじ』を夢中になって読みながら飲んだロイヤルミルクティ。
子どものころ、真夏に母と買い物に行った帰り、涼を求めて入った台湾茶藝館で初めて口にしたタピオカミルクティ。
あれもこれも次々に浮かんできます。
行ったことのない遠い国のお話が、過ぎていった時間を連れてきてくれるようでした。
著者の紅茶を通して見る日本のあり方にも考えさせられるものがありました。
気合を入れる朝の時間、ひと息つく夕暮れどき、のんびり静かな真夜中に、
一杯のお茶を楽しむゆとりを大切にしたいと思いました。
世界でいちばん美しい/藤谷治
ふと見かけた著者のツイッターでの発言が気になり手にとってみました。
藤谷さんの作品は、『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』『おがたQ、という女』『誰にも見えない』に続いて四作目。
雪踏文彦。
ひとは、みな、彼のことを親しみを込めて「せった君」と呼ぶ。語り手である作家・島崎哲も、親友である彼をそう呼んだ。小学校ではじめて出会い、いつもどこかぼんやりしているようだったせった君は、幼少期から音楽の英才教育を受けていた島崎が嫉妬してしまうほどの才能を持っていた。
中学、高校と違う学校に通ったふたりは、あまり頻繁に会うこともなくなったが、大きな挫折をしたばかりの島崎を、ある日、偶然、目の前に現れたせった君のことばが救ってくれる。やがて、再び意気投合したふたりは、彼がピアノを弾いている一風変わったバーで行動をともにするようになった。
音楽のことしか、ほとんど考えていないせった君だったが、やがて恋をして、彼がつくる音楽にも変化が見られ始めた。そんなある日、彼らの前に、妙な男がちらつくようになった。彼は、せった君の彼女・小海が以前、付き合っていた男だった。そして、事件は起こった。
先へ先へと読ませる力強い作品でした。
それでいてきらめくような初恋の光景や、
幼いころにちくっと刺さったまま、いまもときどきうずく苦い体験のことが、細やかに描かれています。
せった君、島崎哲、津々見勘太郎が結ぶ三角形をくるくると巡りながら、
コントラストに胸が締めつけられていきます。
誰もがなんらかの強い衝動を持っている。
それをどのように扱い、いなし、表現していくのか、
個々の手に委ねられているのだと思いました。
全編を貫く「火」の存在(「火事」「けむり」「炎」「ともしび」)は、そのまま命のことのようで。
適温であれば人をあたため、過ぎれば焼き尽くすほどの力を持つ。
めらめらと燃え盛る炎の隙間に見え隠れする登場人物たちの姿から目が離せなくなります。
印象的な使い方をされている「箱に入った木の棒」。
「千年も、ことによるとそれ以上も昔から、人から人へ、五十の者から生れたばかりの者へ、ずっと受け渡された棒」。
遥か昔から途切れることなく、いまここにいる自分まで届いた命のバトン。
私にはオーケストラの指揮者の振るタクトのように思えました。
託されたタクトでどんな音楽を奏でるのか。
それはやっぱり自分が「世界でいちばん美しい」と思える音楽を。
願わくば大切な人たちにも喜んでもらえるような曲でありますように。
そんなふうに今日も生きていきたいと思わせてくれる作品でした。
はじめましての御挨拶
はじめまして。
こちらは書評ブログ「kuu&maa」です。
大好きな本にまつわることを、ゆっくりのんびり、ひとつずつ書いていきたいと思っています。
日本の小説を中心に読んできましたが、これからはもっといろいろな作品を読んでみたいです。
これぞ!という一冊がありましたら、ぜひ教えてください。
ちなみに私が今年これまでに読んだなかでおすすめのものは…
わたしのマトカ/片桐はいり
映画の撮影で訪れたフィンランドのことをはじめ、旅についてのエッセイを、女優の片桐はいりさんが独特の視点から書かれています。
紙面から片桐さん演じる「片桐はいり」の姿が浮かび上がってくるようで、お腹を抱えて笑いながら読みました。
灯台守の話/ジャネット・ウィンターソン
盲目の灯台守ピューと孤児の少女シルバー、二人の巡りあいから過去にも未来にも広がる物語。
お話の最後の三行に出会えて、本当によかったと思える小説でした。
抱擁、あるいはライスには塩を/江國香織
毎年冬になると読み返すくらい、著者の『流しのしたの骨』が大好きなので、同じ家族ものということで手を伸ばしてみた一冊。
すべてを包みこんで建っている家というものの大きさと、そのなかで起こるどんな出来事も過ぎてしまえば等しく愛しいのだと、優しくせつなく語りかけてくれるようなお話でした。
これからどうぞよろしくお願いします。